変化のスピードが非常に早い今の世の中において(もっとも実際は昔から変化のスピードは早いのかもしれないが)普通に、昔からこうだったんです、だからこうやってます、ということを理由に仕事をする人が多い。何かの理由があって、こういう経緯があり、昔からそうなってしまっている、ということまでわかっていて言っている人は意外にも少ない。
とある記事で、最近は部活動で野球をしている生徒たちは、坊主頭でない高校も少し出てきているという記事がありました。甲子園とか積極的にみませんが、たまに見たりするとほとんどが丸坊主ではないにせよ、スポーツ刈り的な球児がほとんどで、ほんとかいな?と思ったりします。
もともと坊主文化みたいなものは、恐らく軍隊とかそういう何十年も前の文化からだと思いますが、その名残が何故か野球にはあると思われます。よくわからんけど、昔から代表的なスポーツであった野球は未だにその流れがあるのかもしれません。サッカーとか他の最近人気あるスポーツってみんな同じスポーツ刈りとか坊主ってないような。
結局のところ、坊主やスポーツ刈りでなければいけない正当な理由などありません。理由としては伝統だから、野球に専念してほしいから、などわけわからん理由をあげるわけですが、ロジカルで本質的な理由にはなりません。何で野球だけ?ということにもなりますし、坊主だから強いというわけでもないです。現にプロの方々は自由な髪形をして、強いチームは強い。
歴史的な背景はあるにせよ、結局野球をやらせたい、もしくはやってきた人達というのは、固定概念に縛られ、そういうものだ、というまったく本質的でない思いが強いのではないでしょうか。勿論誰しも固定概念はあるので、何かに対しておかしい、と自分が思うことが、常におかしいわけでもないですが、少なくとも野球に関わる人達の割と多くの人(大人)が、未だに丸坊主やスポーツ刈りであるのが普通、と思っているから、こういったどーでもいいルールや暗黙の了解的なものが変わらないのだと思います。
ダイバーシティ(多様性)の享受が大事だと言われている中で、そしてそれは世の中が国内だけでなくグローバルになってきたということはあると思いますが、未だに残るこの文化は既に滑稽でもあります。
そもそも部活動であり、クラブ活動なんだしとも思いますが、髪型すら自由に出来ないのは教育もあるでしょう。これは一部の変な校則にも同じことが言えます。一般的にあることを学んでもらいたいと思っている状況があったとして、先生が生徒に向かって一方通行で教えるというのが日本では一般的。それが悪いというわけではないですが、ある意味生徒は先生を批判しにくい。
一方アメリカなどでは、学んでほしい”あること”に対して、先生はそのあることを投げかけるので、批判をしたい人は、先生ではなく、その”あること”に対して批判をする。だから別に先生を否定するということにはならなく、ディスカッションの場が生まれると言われたりします。
違う角度からみると、最近は日本も随分変わったんではないかと思いますが、考える、正解のないものを考える力をつける、という意味では、孔子スタイルともいえる一方通行の教え方では難しい場面が増えてくるでしょう。
そのような背景からも、繋げていくと丸坊主がなくならない、ということはどこかで繋がるかもしれません。今やネット検索をすれば、いくらでも何かに対する答えというのものは検索できるわけですし、日本においては、日常生活が便利でちょっとしたことも考えなくて済むようになっています。
例えば、案内の看板やエスカレーターでの注意喚起、電車での案内。忘れ物ないようにお気を付けください、手すりにおつかまりください、などのアナウンスを欧米ではほぼない。些細なことですが、その便利さが無意識に考える、ということを奪っているのかもしれません。
話がそれましたが、今後甲子園に出てくるような子供達が、すげ~~長髪だったり、髪染めて出てくるのを見てみたいものです(笑)そしてそのチームが強かったら面白いのになーなんて思ったり。
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